株式会社ゴルフ総合研究所 代表取締役 平野知生

 父は左官職人の親方。自身も小さな頃からトラックに乗りこんでは仕事について行き、セメントを練って遊んでいた。家には6人のお弟子さんが住み込みで働く。ゆえに扱いはおぼっちゃん。

「今思えば小さな頃から自信過剰でわがままでした。欲しいものを買ってくれるまで駄々をこねて動かなかったことも幼稚園の頃にありましたよ」

 そう話してくれたのは株式会社ゴルフ総合研究所の平野社長。その優しい口調からは自信過剰もわがままも想像できない—。

恵まれた少年時代から一転

 小学校4年生の時、摂津リトルリーグで野球を始めた。夢はもちろんプロ野球選手。レギュラーを勝ち取る実力もあったし、練習最後のランニングはトップで走りきるほどの体力、脚力もあった。

 そんな平野さんだったが中学では突如サッカーに挑戦。一年生の4月にサッカー部に入り、2カ月後の6月にはレギュラーに抜擢。初年度は先輩からのやっかみに似た嫌がらせを受けながらも3年間を走り抜け、中学校を卒業した。

 高校でもサッカー部に入部。ところが2回だけ部活に行き、退部。「何か違うな」とあっさり見切りをつけた。

 高校入学直後にサッカー部を辞めた息子に父親が薦めたのはゴルフだった。

 早速ゴルフクラブを買ってもらい、父と共に打ちっぱなしへ。初めての挑戦だったが楽しかった。我流のスイングで何度も何度も打っていた。

 スポーツをやらせればとにかくあっさりと結果を出す。初めて父と回ったラウンドで叩いたスコアは108。

「プロ目指すか?」という父の言葉とゴルフの楽しさに後押しされ、うまくなりたいと教室に通いだした。

 ゴルフにのめり込み始めた高校1年生の夏、きっかけを作ってくれた父が病になった。仕事のプレッシャーなのかどうなのか、今となっては分からない。父の金遣いが突如荒くなり、睡眠不足になるまで酒を飲み、出世欲、名誉欲が強く現れだした。周りにはチヤホヤする人間が増え、それらに金を貸すようになった。次第に事業資金は減っていき、最後は家で包丁を振り回す始末。病んだのは身体ではなく精神だった。

 檻のついた精神病棟に入院し、事業も廃業。当然収入もなくなる。平野さんは兄姉3人の5人家族。家族の生活費、それぞれの学費を稼ぐため、母は喫茶店、夜はスナックで寝る間を惜しんで働き、兄も姉も大学に通いながら家族のためにアルバイトに勤しんだ。もちろん平野さんも例外ではない。学費とゴルフ代を稼ぐため、高校1年生でありながら朝は3時に起きて新聞配達を始めた。バイクにまたがっての新聞配達。冬は道路が凍り付き、転倒して新聞を散乱させたこともある。それでも「負けるか」と歯を食いしばり、力強く新聞を拾った。

 努力の甲斐と持ち前のセンスで公立高校に所属しながらゴルフの全国大会に出場した。そのまま大学へ進み、卒業後、六甲国際ゴルフ俱楽部でプロテストを受けるため研究生になった。

研修生から独立まで

 研修生とはいうものの練習の時間は少ない。朝の7時から16時までは傷んでいる芝を張り替え、バンカーをならし、木が倒れかけていたら養生をする。すべてが体力を要する仕事。 それらが終われば、ようやく練習の時間が訪れる。疲れた体で20時まで練習。ひたすら技術を磨き続けた。

 仕事をしながら自分で時間を見つけてはゴルフの練習をするのが当時の研修生。時間さえ作ってやれば朝も練習できないわけではない。もちろん7時から仕事が始まるため、練習するならその前となる。そこで役立ったのが新聞配達で培った早起きの習慣だ。

 起床時刻は朝4時半。そのまま一人で練習をする。そして、仕事、練習、睡眠、起床、練習…。

 仕事の報酬は手取りでたったの4万円。同期の研修生のうち、半分が半年でやめ、一年経つ頃には3人だけとなる過酷な状況で、平野さんは朝4時半起きの生活を1年半続けた。

 転機が訪れたのは二十歳の時。きっかけは一緒に寮生活をしていたプロの現状を知ったことだった。

 プロではあるが、試合にはなかなか出られず、ラウンドレッスンで稼ぎ、男芸者として生活を繋いでいる。※男芸者=応援してくれる人(相撲でいうところのタニマチ)との食事会などに参加して関係を深めること。プロになるよりも、なってからの方が厳しい現実を知った。

 そのタイミングで、とある会社から仕事の誘いが来た。仕事内容はゴルフ会員権の売買だ。

 当然、営業相手はゴルフ好きの人となる。平野さんは最も得意とするゴルフを使って営業を仕掛けた。

 一緒にラウンドを回る。こちらは二十歳の若造。相手はもちろん舐めてくる。ところが平野さんはプロを目指した経験者。実力が違う。気が付けは社長たちが教えを乞うてくる。そして紹介ももらえる。まさに仕事は絶好調だった。

 嬉しいニュースは他にもある。お父さんの社会復帰だ。無事に退院を果たし、以前の発注先の親方の下で再出発。次第に体調も信頼も回復し、昔の良き仲間たちも再び集まってくるようになった。

 25歳までは仕事で結果を残し続けた。ところが頑張れば頑張るほど上司である部長との関係は悪化していく。部長はフットワークの軽いタイプではなかった。家族がいて、家族の時間を大切にする人だ。逆に平野さんはフットワークが軽い。たくさんの誘いを器用にこなし、ゴルフをしながら営業成績を上げていく。仕事の一環なのでそのお金は会社の経費が賄ってくれる。ところがその経費がまったく落ちなくなった。部長の差し金なのは明らかだった。

 このままでは自己成長が止まる気がした。同時に、経費ではなく、自分のお金で成績を挙げなくてはならない状況に可能性を感じた。

 社長に退職の意思を伝える。もちろん引き留められたが、言って聞く平野さんではない。ただ、辞める理由を聞かれても部長のことは一切言わなかった。

「悪口は言いたくないんです。それに言ったとしても一時的な改善にしかならないので」

 この言葉からは平野さんの男気と優しさが垣間見える。

 約5年に渡り、充分な経験は積んだ。25歳になった1992年の11月。ゴルフ会員権売買を行なう個人事業として【フィールドゴルフサービス】を起ち上げた。そして1996年(平成8年)8月8日。幸先の良い末広がりの日に【株式会社ゴルフ総合研究所】を設立。1998年には事業拡大のため、豊中市に当時まだ珍しかったシミュレーションゴルフ場を作った。結婚もし、子どもも授かり、まさに順風満帆に思えた。

父との別れ

 順調に見えた会社経営だったが、そう上手くは運ばない。シミュレーションゴルフ場で常駐のレッスンプロ2人を雇用し、1000万円の赤字を出した。単に人件費の問題もあったが、利用客が思ったほど伸びてくれない。それもそのはず、ほとんどがその二人のプロではなく、平野さんから学ぶことを望んでいたからだ。平野さんの丁寧で、心のこもった指導を多くの人が望んだ。その事実に気づき、赤字を解消するため自らが会員権を売りながらも、会員さんにゴルフを教えるようシフトした。

 その後は再度レッスンプロを雇用したが常駐をやめ、週に2回か3回の雇用体系で人件費を抑えた。その甲斐あってまた経営は波に乗り、10年後の2009年に同じ豊中市の曽根駅前で二号店を出店した。ところがまだ経営の女神は微笑まない。後に信頼していたレッスンプロの不正が発覚し、任せようと思っていた新卒男性も退職。平野さんはそんな逆風に抗おうと新商品開発事業部を起ち上げ、車輪付きのパターなどのレッスン道具を開発したが、どう計算してもいずれ資金がショートするのは明白だった。

 2013年1月10日。父親が他界した。年末に子どもを連れて実家のある鹿児島県に会いに行ったときは病床に伏せてはいたがまだ元気だった。ところが年明けに容体が急変。とんぼ返りするかのように鹿児島に戻ったが、父はそのまま帰らぬ人となった。

 母親から「お父さんはいつも『知生は今、大阪で大変なはず』と心配していたよ」と聞かされた。平野さんの父は、父親として、経営の先輩として、息子の苦労を遠い地にいながら理解していたのだろう。感謝を伝えながら手を伸ばした棺桶の中の、つい先ほどまで生きていた父の背中の温もりは今でも憶えているという。

 父は小さな頃からいつも自分に構ってくれた。たくさんの可能性を与えながら育ててくれた。精神を病んでも復帰してくれた。そして最後まで自分を心配してくれた。ずっと家族を守ってくれていた。

 その想いが平野さんを奮い立たせた。

「自分も命を懸けて守るべきものを守ろう」

 頭の中には家族と、会社と、社員の姿が浮かんでいた。

 気を奮い立たせただけでは現状は変わらない。現状を変えるためには自分を変える必要がある。2014年、思い切って曽根の二号店を閉めた。そして事務所の家賃交渉に出向き、28万円だった家賃を10万円下げてもらうことに成功した。難しい交渉をしたわけではない。大家さんも「長いこと使ってくれているから安くしたいと思っていた」と言ってくれたそうだ。ただ、今までは凝り固まったプライドのせいで頭を下げることができなかった。自分を苦しめていたのは自分自身だったのかもしれない。

 不思議なもので行動する者に波は来る。平野さんには保証協会から借りた事業資金が2000万×2本。合計4000万の借り入れがあったが、たまたま飛び込み営業に来た大阪シティ信用金庫の営業マンとご縁が生まれ、借り換え融資により一気に返済が楽になった。

倫理法人会との出会い

 20代から走り抜けてきたが、もう50歳目前。平野さんは「これでいいのだろうか」「もっと何かを変えていきたい」とずっと考えていた。そんな時に出会ったのが倫理法人会だ。2018年に入会し、経営者の仲間が一気に増えた。その時に言われた言葉がある。

「平野さん、いつまで一人で頑張るんですか? 人を入れ、人を育て、もっと自分が動ける体制を作らないと。現状維持は衰退の始まりですよ」

 パッと目が覚めた気がした。今まで自分は何でもできた分、いろいろと社員に口を出してきた。思い通りにならない物事に対し、他人を責める心が強かったように思う。いざとなれば自分でやればいいと過信してきた。そうして事業を拡大しては上手くいかずに辞めていった。結果、残ったものが二号店の閉店と借金だ。

 50歳から起業する人もいる。自分を変えて、何かに挑戦するのは今からだって遅くはない。50歳からはこれまで出来ていなかった組織運営に力を入れよう—。そう思った。 そう思った瞬間から他責の心が自責にかわり、グンとやる気も湧いてきた。

運を天に任せて

 平野さんの頭の中には、いつも倫理法人会で学んだ言葉が流れている。

【事業の上でも経済の上でも、その他奇禍にあった場合でも、恐れ、憂え、怒り、急ぎ等々の私情雑念をさっぱりと捨てて、運を天に任せる明朗闊達な心境に達した時、必ず危難をのがれる事が出来る】

 この言葉に導かれるように、未来を信じて、人を信じて、強い気持ちで運を天に任せていこうと決めた平野さん。

 2020年、コロナ到来。レッスン生が半分に減った。以前の自分なら時代のせいにしていたかもしれない。だが今は違う。私情雑念を捨てて現状と向き合った時、残ってくれた会員さんに対して感謝の気持ちが生まれた。その会員さんたちに笑顔で接した。結果、同年7月の決算ではコロナ禍でありながら黒字を達成。二カ月後には新卒採用を実現した。当然迷いはあったが、組織運営をしたいとの思いから採用に踏み切った。その後、彼の活躍の場を作ろうと、2021年5月に改めて2号店を出店。独立前提で社員の成長をバックアップしている。

 今でも手のひらに父の最後の温もりを思い出す。思えば幼少時代から父はいつでもステージを用意してくれていた。野球がしたいといえば野球をさせてくれ、サッカーをしたいといえば快く応援してくれた。そしてゴルフを薦めてくれて、気が付けば今や自身の仕事となっている。

 次にすべきことは、組織の運営。次世代へのステージの提供。
 自分ですべてをこなすのではなく、組織が人を育て、事業を展開させていく。

「弊社で働いてくれているスタッフが独立してグループ会社を作ってくれると嬉しいです。そしてまた彼らが誰かを雇用して、またグループができて、というように、みんなが喜んで働けるステージを作っていきたいと思います」

 2022年11月には箕面にて三号店をオープン。今は自分が育った吹田市で、4号店のオープンを目指す。

株式会社 ゴルフ総合研究所
大阪府豊中市南桜塚3丁目15番21号
06-6850-8050
http://www.golfsoken.com

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この記事を書いた人

熊本県八代市出身
兵庫県西宮市育ち
大阪市在住
九州男児と胸を張るが実は熊本は生まれただけ。
当然のようにネイティブ関西弁を扱う。

ライター時代は格闘技、美容、風俗、コラムなどを執筆。
現在ラヂオきしわだにて「風祭耕太のわらしべTalking」を担当。
2022年5月kazamatsuri-magazineスタート。

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