1960年代大阪。千里ニュータウンの開発と日本万国博覧会(通称:大阪万博)が同時期に進められた建築ラッシュの時代に、青森から大阪に出てきた男がいる。
古川芳夫。親族を集めて大工を生業とした事業を興し、不動建装と名付けた。
現在、不動建装を法人化し、継いでいるのは息子の古川貴晃社長。
1979年生まれ。
座右の銘は「面白きこともなき世に面白く。面白きこともなき世を面白く」(高杉晋作 引用)
古川社長にその人生をきいてみた。
スタートは夜の世界
「兄や弟は親父のところで働いていましたが僕だけが『お前は自由闊達にいろんなことをやれ。会社は継がなくていい』って言われていました。親父いわく、他の兄弟は家業を継ぐことくらいしかできないけど、お前は違うからって」
古川さんは笑いながら話す。
ならば会社を継がずに好きなことをしようと高校卒業後、専門学校へ進学し、歯科技工を学んだ。夜間学校のため終わるのは22時。この時間から働ける良いバイトはないかと考えた結果、浮かんだ答えはホストクラブ。面接に行くも結果は不採用。だが、彼はそのまま夜の世界を覚えることとなった。
古川さんが始めたのはキャバクラのキャッチのバイト。街行く人に声をかけ、自分の勤めるお店に誘う。1300円の時給とは別に1組ご来店で500円の歩合。ITバブルで浮ついた大阪の夜の繁華街でキャッチを続け、バイト2ケ月目からグループ400人中2位を叩きだすことに成功した。
その接客力と人心掌握術が買われ、バイト先のトップから「店を出すから一緒に来ないか」と誘われ、ミナミでキャバクラを出店。専門学校を辞め、そのまま社員となった。
実力が伴った時の夜の世界の出世は早い。店は1年で利益を生み、2店舗目では店長に就任。3店舗目を出した時には部長になり、4、5店舗目と展開した時には社員50名、キャスト100名を超える統括本部長となり、会社のNO.2にまで登り詰めた。その後は大阪を離れ高知県を拠点とし、キャバクラ、セクキャバ、無料案内所と事業を拡大していく。当時まだ23歳。結婚もし、事業は高知県で一世を風靡。誰もが羨む成功を収めた。
東京での再出発
「仕事を辞めてほしい」
突然、妻からそう言われた。大成功の中、妻だけは古川さんの姿をしっかりと見ていたのだろう。華やかな世界とは裏腹に夜は眠れず、酒も多い。アウトローとの付き合いも必然的にできてしまう。そんな世界を捨てて、別の仕事についてほしいというのが妻の願いだった。
大阪に戻ることも考えたが、戻ったところで同じ業界で働いてしまう。そう思って東京へ行き、不動産デベロッパー会社で勤めだした。別にデベロッパーがしたかったわけではない。ただ、給料が他と比べて良かったというのが理由だ。とはいえ月給35万。つい最近まで月収150万以上を取っていた古川さんにとって生活水準を抑えるのは難しい。減った収入を補うために妻もキャバクラで働いていたため、妻の帰宅は夜遅く。そうなるとつい外食してしまい、お金を使ってしまう。
「僕が夜に出て行かないように、妻が考えてプレゼントをしてくれたんです。何やと思います? プレイステーションです。それからはゲームしてたので出掛けなくてすむようになりました」
またも古川さんは笑って話す。
遺言書に託された思い
現在に繋がる大きな転機が訪れたのは東京に来て1年が経った頃だった。
突然鳴った、父親、芳夫さんからの電話。「癌になった」という報告の後、聞こえてきた言葉に驚いた。
「仕事、一緒にやらんか?」
数年ぶりの帰阪。初めての作業着。大工の仕事。未経験の仕事は大変だったが、それでも3年間、ひたすらに頑張った。プライベートでは子供も生まれた。おじいちゃんになった芳夫さんは、孫を抱いて嬉しそうに、その昔、貴晃さんにそうしてくれたように、いろんなところに連れて行き、遊んでくれた。
そして亡くなった。
個人事業とはいえ、昭和39年から続く不動建装。もちろん事業承継の話になる。2人の兄はすでに別の仕事についており、息子で残っているのは貴晃さんと弟のみ。貴晃さんは3年間努力したとはいえ、まだまだ大工としては経験が浅い。従業員や親族全員が後継者として弟を推した。実際、貴晃さんも幼いころから「継がなくていい」と言われていた。しかし、芳夫さんの遺言書には真逆のことが書かれていた。
「事業は貴晃に継いでほしい」
芳夫さんが貴晃さんを後継者として選んだ理由は「人生経験」だった。職人気質の弟は堅物で社交的とはいえない。社交的で、人心掌握ができて、様々な経験をしてきた貴晃さんこそが後継者に相応しい。父親からのその思いを受け止め、2007年4月に代表に就任した。
とはいうものの貴晃さんが3年間従事したのは大工の仕事。急に親方になったところで見積もりも書けなければ、税金の払い方すらわからない。おまけに残された借金800万。経営者として先行きが不安な中、どうにか打開策を見つけようと高知県で設計事務所を経営している知り合いのもとへと相談へいった。
商工会議所へ入れ
相談をしている内に「親方業ではなく、社長になれ」という言葉をもらった。そしてそのために「商工会議所へ入れ」というアドバイスを受けた。
【入ればすべての人脈がある】という商工会議所。多くの経営者が集まる場所。
当時のやんちゃだった自分を改め、経営者と会い、学びたいと思った古川さんはアドバイスの通り商工会議所青年部に入会。そして2008年5月には事業を法人化、株式会社不動建装の代表取締役に就任した。
商工会議所に入り、社長にもなったが、それは表向きの話。名実ともに社長になるには仕事をもっと大きく展開していかなくてはならない。
長い間、不動建装は下請け業務を行なってきた。まず工務店が大工に仕事を依頼する。不動建装の仕事はその大工からの請け負いだ。
「昔の職人は不器用で数字が苦手なんです。だから下請けで仕事をする。もらえるのは人件費だけなので利益も少ない。そこで僕は商工会議所の人脈を使って工務店と知り合い、直接仕事をもらうことに徹しました。そうすると人件費以外にも、材料費だったり、作業の効率化をしたりして、いろいろと利益が生まれるんです」
人脈が増え、仕事も増え、下請けから元請けへとスタンスを変えることで利益も増えた。父親の残した借金800万円は2年で返済。引き継いだ時には2800万円だった売り上げも3億に跳ね上がり、一時、3人まで減った社員は10人に増えた。
2011年。古川さんにとって思い出の地に事務所を購入。まだ自分が小さかった頃、父がよく連れて行ってくれた場所。孫も連れて来てくれた立ち飲み屋のある酒屋さんの土地。もう年老いて営業しなくなった店主と話をし、1億円で事務所を購入し、そこを事務所兼倉庫とした。
それから2年後。商工会議所の人脈と、丁寧に重ねていった実績が評価され、大手ゼネコンやマクドナルド、ケンタッキー、サイゼリヤからも仕事が来るようになり、東京出張が増えた。そこで東京営業所を作り、東京での仕事にも関西と同じだけの力を注げる体系を作った。それを皮切りにディオールやシャネル、USJのハリーポッターやミニオンズの施工などを受注。社員15人。売り上げも5億となる。
事業の展開
売り上げも伸びたが、これから先、7億いくには、10億いくにはどうすればいいか。おそらく大工だけでは無理だろう。もっと仕事の手を広げる必要がある。
先述した下請けの大工たちは建築材料を元請けから受け取っている。つまり、毎度与えられた材料で仕事をすることになり、一体どんな現場ならどれだけの材料がいるのかを考える機会も、必要もない。
「そこにチャンスがあると思って、材料の分量や買い方わからない大工でも、建材を購入できるECサイトを作りました。平米数を入れたらどれだけの材料が必要かわかる仕組みです。直接建材を仕入れることで、にわか大工がもっと仕事をできるきっかけを作ったんです」
開設当初、サイトの売り上げは月に100万円程度だったが、今では年々売り上げを更新している。
「サイトを作りはしましたが、このままでは7億の売り上げには辿り着けないなと思い、友人が居酒屋をオープンするというので、その店舗をまるまる作ったりもしました。店を作ろうと思ったら、クロスや防水、電気工事などたくさんの業者を必要としますが、そんな人たちが全部商工会議所にいるんですよ。今まで仕事をもらうばかりでしたが、これを機に仕事を与えられるようになろうと思いました。そのために建築だけでなく、デザインや設計もできるようになろうと考えたんです」
結果、事業を大工のみに留めることをやめ、内装一式業をスタートさせた。
コロナの到来
2020年、コロナ到来。大手飲食チェーンの出店キャンセルが相次ぎ、不動建装は大打撃を受ける。仕事は減っても月々の固定経費はかかる。売り上げから計算しても、4000万はマイナスになると予想した。
「事務所を売ろう」
幸い、土地の値段が上がっており、1億3500万円で土地が売れた。さらにその土地に商工会議所青年部の先輩がマンションを建てることになり、その建築の仕事も受注した。
同時に広い人脈を利用して新しい事務所を紹介してもらい、吹田市南金田に9000万円で新しく事務所を購入。結果、手元に残ったお金で想定通りの赤字を補填することができた。売却、購入、そして必要なお金と、残った資金。まるで何かに導かれるかのような采配だ。
コロナはピンチばかりではない。宿泊客がいなくなったホテルは今が機会とリフォームを始める。その仕事を受けるのはもちろん不動建装。内装一式業への事業展開が功を成した。
歴史から学べ
古川さんと話していると、人脈という言葉が頻繁に出てくる。今まで訪れたピンチにも、チャンスにも、必ずその人脈が活かされている。ただそれは、人脈がすごいだけではない。その人脈を作り上げた古川さん自身がすごいのだ、と私は思う。
「親父からは『勉強が嫌いならせんでええ。でも歴史は学べ』と言われてきました。歴史上の人物は成功もしているし、失敗もしている。歴史からすべてを学べるんです。だから歴史だけは勉強しましたし、今でも勉強しています」
手本とする人物は2人。武田信玄と豊臣秀吉だ。
戦国最強軍団を誇った武田信玄。「人は石垣」との言葉からわかるように、身分に捉われることなく人との関係を重んじた。仲間を増やして成長させるマインドは武田信玄から学んだ。また、数々のチャンスをものにして、幾度となく訪れたピンチを耐え忍んだのはまさに「風林火山」そのものといえる。
経営者として、社外での立ち振る舞いは豊臣秀吉の生き方を実践した。信長の草履を温めた逸話のように、聞こえは良くないが「人たらし」に徹する。大阪の繁華街にいた頃から得意だった人心掌握は豊臣秀吉の影響を受けている。
さらに古川さんには自分自身の歴史、つまり経験がある。芳夫さんが古川さんを後継者に選んだ理由である人生経験。大阪ミナミや、高知県で店を出した経験は店舗設計の工夫や、飲食店を成功に導くコンサルティング能力となり、単に言われた工事をするだけでなく、如何に毎日の売り上げをあげるか、如何に事業をうまく回すかまでを提案できる建築会社となった。
10代から決めていることがある。それは50代での引退。50代で世代交代をし、新たな人生を作っていきたい。
「親父が亡くなったのが70歳なんですが、早く世代交代ができたと思っています。だから法人化もできたし、事業も拡大できた。会社というのは早く世代交代すべきだと思いますよ」
20代から走り続けてきた古川社長。50代での引退と言ってはいるが、どうもそうは思えない。きっと何かまた事業を興し、あるいは展開し、驚きの人心掌握術でたくさんの仲間を巻き込んでいくことだろう。
株式会社 不動建装
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