株式会社 和 代表取締役 内堀三紀代

憧れだった看護師へ

 小さな頃から扁桃腺が弱く、よく高熱を出していた。母親に連れられて病院に行くたび、見とれてしまうのは看護婦さん。鑷子(せっし・ピンセットのこと)を使ってキラキラ、ピカピカした瓶からガーゼや薬を取り出す。自分の知らないものをテキパキと扱う看護婦さんのその仕事は、興味から憧れへと変わっていった。

 訪問看護ステーション和(なごみ)を経営する株式会社和の内堀三紀代社長。

 彼女の看護師人生は1995年春に始まった。就職先は約200床の民間病院。内科、ICU、整形外科の病棟に配属された。目標は「この人が来てくれて良かった。またこの人に会いたい」と思ってもらえる看護師。ところが実際の現場は大忙し。

「しんどくて泣きました。当時はまだ教育訓練が浸透していなくて、目で見て技術を盗む時代でした。『下手くそっ!』と患者さんに怒られたこともあります。でも、私って負けず嫌いなんです。上手くできない自分自身が悔しくて、自分から進んで経験を積むようにしました」

 内堀さんの勤務時間帯は忙しくなることが多かった。そのため、急患や患者の急変にも同期看護師より多く立ち会った。この病棟にいたのは5年半。その後、同病院の産婦人科病棟に配属。帝王切開、逆子、双子などの異常分娩の他、病院へ向かう車内で出産してしまったとう稀なケースにも、病院到着後、すぐに立ち会い、看護師としての経験を重ねていった。

訪問看護の素晴らしさ

 30歳を迎えたタイミングで転職を決意。医療人材派遣会社に登録し、別の病院で違う経験を積む予定だったが、その派遣会社にスカウトされ、コーディネーターとして勤務を始める。医療人材を派遣するにあたり、コーディネーターに求められるのは人材に寄り添える心と知識。積極的に自分自身と向き合った9年間の看護師の実績が、看護以外でも能力を開花した。

 コーディネーターとして2年ほど勤めていた内堀さんだったが、また転職を決意する。

「じっと座っているのではなく、臨床に戻りたい」
 憧れだった看護師の仕事はやはり自分の天職なのか、現場に戻ってさまざまな経験を積みたいという気持ちが強くなり、大阪府箕面市のクリニックに転職。老人保健施設や訪問看護ステーションの現場に関わりながら、看護師としての再スタートを切った。

 この病院への勤務を決めた理由の一つは訪問看護だ。訪問看護とは、看護師が患者の家に訪問して、その病気や障害に応じた看護を行なうこと。24歳の頃、看護師になって3年目の研修で在宅医療の実習を受けた。訪問看護について行き、その現場を目の当たりにした。

 入院していた患者が退院し、家に帰る。そこに往診へ行く。患者は入院中よりも生き生きしている。いったい何故か? 患者こそが家の主だからだ。ついこの間までは病院にいて、食事の時間も薬の時間もすべて病院側が管理してきた。しかし、今は患者が(当たり前のことではあるが)家の主として過ごし、食事も薬も、自分で管理して病気を治そうとしている。

 その姿を見て、家で過ごすことが人にとって如何に大切なことなのかがわかった。在宅こそ看護の原点。病院での患者はその人の切り取られた一部分にしか過ぎない。今、自身の目の前の患者こそ本当の姿であり、これが生きるということなのだ。それを医療でサポートする訪問看護は何とすごいものなのだろう。

 新しい病院で内堀さんは新生児からお年寄りの治療、内科、外科、新しい医療機器などを実践で学び、知識を深めていった。そして結婚、出産を機に退職。子育てのため、勤務時間をセーブしながら産婦人科や土曜学校の保健室での救護待機を経験した。

支援教育看護介助員での学び

 子どもが小学生になり、少し手が離れた頃、小学校で看護師を募集しているのを見つけた。「地域で共に生きる。共に学ぶ」をスローガンに、障害者が安心して暮らせる平等な社会を作ろうという信念のもと、重症心身障害児の医療的ケアを行なう支援教育看護介助員の仕事だった。

 ところがそこで大きな思い違いをしてしまう。

「看護の仕事をしてきたので、子どもたちやその親御さんに対して、今までと同じように看護師として接したり、指導したりしてしまったんです。意識はしていなかったけど、少し上からものを言ってしまったこともあったと思います。柔らかく伝えたつもりなのですが、結果的に子育てに口出ししてしまうこともありました。なので保護者から怒られました。だから考えたんです。なぜ怒られたのだろう。なにが悪かったのか。どうすれば上手くいくのか。ずっと考えていました」

 重症心身障害児は患者ではない。児童だ。目的は障害者が安心して暮らせる平等な社会を作ることであり、治療ではない。そう考えた内堀さんは今まで培ってきた技術、知識、経験をもとに「どうすればみんなと一緒に学校生活を送れるか」を考えた。そして、寄り添うことを決意した。林間学校や修学旅行、プールの授業にも同行した。運動会のリレーで児童をバギーに乗っけて内堀さん自身が全力疾走したときの保護者たちの大きな声援と教員たちの引きつった顔は今も忘れられない思い出だ。

 渾身のケアは障害児だけでなく、クラスの子どもたちへも影響を与えた。車いすの児童をエレベーターに乗せる際、他の子がエレベーターを呼んでくれるようになった。自分も休み時間で遊びたいだろうに、車いすが無事にエレベーターを降りるまでボタンを押してくれるようになった。人工呼吸器の充電をしてくれる子どももいた。障害を持っていても関係ない。クラスの一員なのだという意識を子ども自身が芽生えさせてくれた。

 クラスの子ども達の思いやりで力をもらえる親がいる。共に生きるというのはそういうことなのだろう。これを学校ではなく、地域規模で行ないたい。この子たちは学校で共に生きることを学んでくれた。そして社会にでてもそれを忘れずにいてくれるだろう。地域のあちらこちらで優しさの花が咲けばどれだけ素晴らしい世の中になることか。

「私、8回の流産を経験しているんです。着床しても、なかなか成長してくれない。不育症っていうんですけどね。最後の妊娠のときも、夜にすごい血が出たんです。何度も何度もタオルを替えたけど止まりません。あれだけ血が出たんですから育たないということはわかっていたんです。でも救急車を呼べなかった。諦めたくなかったので。でもそれを経験して思いました。2人目なしで生きろっていうメッセージなのかなって。そんな経験があって重度心身障害者と出会ったんです。この子たちは一生懸命、母親のおなかの中にしがみついて生を受けた、すごい力を持った子なんです。すごい根性なんです。私の流産は、この子たちを感じるための経験だったんじゃないかなって思います」

支援教育看護介助指導員として過ごした7年間は、人生の中で一番の学びとなった

訪問看護ステーション和(なごみ)

 41歳で離婚をした。娘は小学五年生。シングルで生活していくため、指導員をやめ、箕面市の訪問看護ステーションに就職した。看護師になって20年。誰よりも色濃く過ごした20年。そこが評価されたのか、川西市の訪問看護ステーションの管理者に試用期間でありながら抜てきされ、内堀さんは晴れて訪問看護師となった。

 それから3年7ヶ月後の2022年1月に独立する。

「会社には独自の決まりがありますよね。会社員である限り、それに従わないといけない。でも、私は自分の理想の看護を広めたいと思いました。それで選んだ道が独立です」

 自分の理想とする看護を想像した時、古民家のような場所が頭に浮かんできた。日本人が生まれながらに持っている和の心。人と触れ合うことで生まれる和やかな気持ち。そんなイメージから訪問看護ステーション和(なごみ)と名付けた。同時に浮かんできたのは梅の花。不思議に思って調べてみると【梅仕事】という言葉に辿り着いた。

「梅仕事というのは、青梅を収穫して、梅干しまで持っていく作業のことを言います。丁寧に、季節を感じながら家で暮らしていくサポートをするのが私たちなので、梅を会社のロゴマークにしました」

 内堀さんの考える理想の看護の内、1つは香りを用いたアロマセラピーだ。天然の精油から生まれたアロマを用いて、香りの効能、自然の恩恵をふんだんに利用する。ドイツでは医学分野でも使われているアロマ。和ではそんなメディカルグレードのアロマオイルを足湯やマッサージに使うことで心地よい睡眠や心身の健康を図っている。

在宅ターミナルケア

 仕事柄、死と向き合うことは多いが、内堀さんは死をネガティブなものとは捉えない。それどころか、在宅ターミナルケアに重きを置いている。家での看取りのお手伝いをするため、終末期ケア専門士の資格も取得した。

 人は死ぬ生き物。それまでどう生きるか。どんな気持ちで生きるか。そして、どのように最期を迎えるか。

 家族みんなで布団を囲んで死を待つ時間。好きだった音楽をかけることもあれば、思い出話をすることもある。最後まで手を握っている人もいる。そんな家族の中で自分ができることは決して前に行きすぎず、後ろにもつかず、ただ伴走すること。その静かな時間を共に過ごすこと。
「耳は最後まで聞こえているから声をかけてあげて。『ここがお家だよ』『誰々がいるよ』って、話しかけてあげてください」

超高齢化社会の到来

 2025年、65歳以上の人が日本の人口の30%になるといわれている。3人の現役世代が1人のお年寄りを支える騎馬戦型と呼ばれる時代は既に終わりを告げており、今は1.8人で1人を支えている。これから先は1.3人が1人を支える肩車型の時代になるが、その頃に今の医療制度は残っているのだろうか。そんなあやふやな保険制度に安心するのではなく、予防に力を入れ一人ひとりの健康の底上げの手伝いができるステーションでありたいというのが和の願いだ。

 その願いを胸に内堀さんは2つのイベントに力を注いでいる。

 ひとつは「地域まるごと笑顔サポート事業」。
 2023年9月には地域の方々に発達障害を理解してもらうイベントを開催した。

 もうひとつは「アスリートサポート事業」。
 運動習慣を作ることで、地域のトータルヘルスケアに努めている。

 今はまだ小さなイベントだが、これから大きくなっていくのを見守っていきたい。

訪問看護師として

 2024年1月に和は2周年を迎える。現時点で看護師暦は29年。つらい経験もしたし、苦しい思いもした。しかし、そのすべてが学びとなった。自分の捉え方、心の持ち方次第で気持ちは変えることができる。幾度となく訪れた自身のターニングポイントにおいて、一つひとつ確実に経験を積み、使命へと変換してきた内堀さんは「今は毎日が楽しい」と笑う。

 利用者のご家族に言われる言葉がある。
「和さんが来てくれてよかった」

 看護師になりたての頃、患者に言われることが目標だったその言葉。今はこの言葉を聞きながら、訪問看護という自分の使命を噛みしめ、どのように生きるべきかを考えながら生きている。

 在宅ターミナルケアでの別れには笑顔もあれば涙もある。いろんな最期がある。そこには、必ず医療の手助けがある。医師、看護師、介護士、薬剤師。そして最後が、訪問看護師だ。


株式会社 和
大阪箕面市箕面6-1-13
0727-20-2315
https://nagomi-n-station.com
https://instagram.com/houmonkangonagomi

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この記事を書いた人

熊本県八代市出身
兵庫県西宮市育ち
大阪市在住
九州男児と胸を張るが実は熊本は生まれただけ。
当然のようにネイティブ関西弁を扱う。

ライター時代は格闘技、美容、風俗、コラムなどを執筆。
現在ラヂオきしわだにて「風祭耕太のわらしべTalking」を担当。
2022年5月kazamatsuri-magazineスタート。

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