北海道函館市。昭和から平成に変わりゆく時代の転換期。小学生男子たちの間で6段変速の自転車が大流行したあの時代に、真っ赤なモトクロスで町を疾走する小学生がいた。
「とにかく天邪鬼で、人と同じもの、同じことがイヤでした。野球が流行っていたのでサッカーを始めたし、自転車も6段ギアではなくモトクロスに乗っていました」
少年の名は木下伸雄。現在は箕面市議会議員を務めている。
海外への思い
人生初の選挙は小学校4年生。とにかくリーダー気質だった彼は児童会で書記を務め、5年生では副会長、6年生の前期では児童会長を務めた。ただ、熱しやすく冷めやすい性格も持ち合わせており、後期では立候補をするものの、演説に力を入れずに希望通り落選。普通の小学生に戻った。
中学ではサッカーを続け、ポジションは花形のFW。キャプテンにも抜擢されるスポーツマンだったが、勉強もできるところが憎らしい。北海道の公立高校トップの偏差値を誇る函館中部高校と名門私立函館ラサール高校を受験し両校とも合格したが、ラサール高校は男子校であるという青春真っ盛りの理由と、親に対する学費負担の心配から函館中部高校へと進んだ。
転機が訪れたのは高校三年生の夏。学校の掲示板でたまたま見つけた「国際交流プログラム」に応募した。結果、全都道府県から数名ずつの代表(北海道からは計3名)の中に選ばれ、ニューヨークとワシントンD.C.で観光した後、プリンストン大学のキャンパスで現地の高校生と交流を楽しんだ。
木下さんの父親は水産加工の会社に勤務していたが、ロシアやアラスカへ半年以上出張していたこともあり、一般家庭と比べて父親と会える日は少なかった。そんな生活の中で楽しみだったのはお土産だ。
当時はまだ珍しかったリーボックの靴や、ナイキのシャツや帽子。父親が買ってきてくれる異国の品々が、少しずつ、外国への興味を持つきっかけとなった。
外国への興味から申し込んだこの「国際交流プログラム」だったが、その経験はやはり大きかった。世界は広い。アイスクリームがでかい。身体もでかい。家と家の間隔も広い。野球を見に行ったヤンキースタジアムでは国歌を斉唱する小柄な少女に全観客がリスペクトを表明する。何をしても、何を見ても違う規模の大きさを目の当たりにして、日本の良さとそうでない部分に気づいた木下さんはそのまま国際関係学を学ぼうと筑波大学第三郡国際総合学類へと進学する。
自分自身のすべきこと
海外と仕事をするには総合商社に入るのが一番だろうと、商社に絞って就職活動を始めた。株価を見て、三井物産や住友商事など、株価の高いところから願書を提出していったが、最終的に内定が出たのは伊藤忠商事株式会社。とはいえ当時の伊藤忠の株価が4~5番目だったため、かなり早い段階での内定だ。4回生のゴールデンウィークの前には早々と就職活動が終了していた。
2002年4月。伊藤忠商事株式会社。四半期に一度、1週間ほどの海外出張でアメリカ、台湾、ロシアを行き来した。
ただ、ここで木下さんの「熱しやすく冷めやすい」という厄介な性格が顔を出す。
最初はがむしゃらに取り組んでいた貿易を通じて“モノ”を動かす仕事も、少しずつ熱い想い入れを持てていない自分に気が付いた。“モノ”を動かす仕事よりも“人”を動かす仕事や、人・組織の成長に関わる仕事の方が向いているのではという想いから、2006年12月、伊藤忠商事の退社を決意。そして2008年3月に株式会社セルムに入社し、企業向け人材育成のコンサルとして15年間勤務した。
人生や仕事に退屈しないためには常に勉強や刺激が必要となる。人材育成という仕事はまさに人の数だけプロセスがあり、そのプログラムも多岐に渡る。課題もどんどん降ってくる。その都度、解決策を探すために学び、実践し、また学ぶというサイクルは自己成長の実現にも役立った。
2022年7月8日。日本中を驚かせた事件が起こる。安倍元首相の銃撃事件。日本の安全神話が崩れた瞬間だった。
ただ、どうもおかしい。あの手製の銃で人は死ぬのか。どうも不自然な報道がされていないか。どこか、日本がおかしな方向に行っているように感じた。
行動を起こさないと後悔する—。
一般市民にできることは投票することだけなのか。デモ行進のような運動を起こしてもすぐに社会が変わるとも思えない。何かできることはないだろうか。
そこで木下さんは政党を調べてみた。そこで出会ったのが参政党だった。
「日本の国益を守り、世界に大調和を生む」をスローガンに誕生した参政党。その代表の神谷氏の演説を聞き、魂が震えた。
「教育が一番大事だというところにまず共感しました。戦後、GHQにより日本の教育は変えられました。教科書に載っている『太平洋戦争』。あの戦争を日本では『大東亜戦争』と呼んでいました。日本人は東アジアを他国の侵略から守るために戦ったという歴史があるんです」
なにも戦争を美化しているわけではない。争いのない世界が実現すればどれほど素晴らしいことだろう。ただ、当時の日本は侵略から東アジアを守るために戦う必要があった。結果、敗戦国となり、教育を変えられ、国民の意識を変えられた。教科書には載っていない真実の歴史があり、先人たちの誇りや、想いがあったはずではなかろうか。日本人には日本人の正義があったことを学ぶ必要があるのではないか。
2023年の夏、仕事で少しかじっていたコーチングを再度学びなおした。その中で受講した自己理解プログラムという100日間のセッションで、将来がはっきりと見えた。
自分の「価値観」「得意なこと」「好きなこと」を徹底的に深掘りするこのプログラム。この3つの重なる部分にこそ、自身の本当にやりたいことが隠れている。
自分の「価値観」は何だろう。人と違うことをしたがる天邪鬼な部分だ。でもそれは同時に違いを認め、他人の意見を尊重することでもある。
自分の「得意なこと」は何だろう。傾聴すること。可能性を信じてすぐに動くこと。
自分の好きなことは何だろう。日本が好きだ。子どもが好きだ。
どんどん、どんどん深掘りしていく。そしてその3つが木下さんの思考の奥底で「日本人の自尊心を高める」という言葉を生み出した。
一気に霧が晴れた感覚があった。振り返ると国際交流に興味を持った時からずっと思っていたことだった。日本人は技術があるのにどうして貧しいのか。本来は素晴らしい国のはずではないのか。であれば、自分の動きで国に貢献したい。
そして市議会議員へ
2024年8月、自身の住んでいる箕面市で市議会議員選挙があった。22人の議員がいたが、これまでの仕事経験を活かせば自分にも務まるのではないかという根拠のない自信が湧いてきた。
議員になるには無所属で立候補するか、政党に入って立候補するという方法がある。木下さんが選んだのはもちろん参政党への入党。面接、ペーパーテスト、そして立候補するに相応しいかどうかの党内選挙をクリアしなくてはならなかったが、木下さんに不足はない。人生で初めての市議会議員選挙に立候補し、1701票を獲得。23人中15番目の当選となった。

晴れて市議会議員になった木下さんの目的はもちろん『日本人の自尊心を高めること』。
「日本には世界をより豊かにする知恵と価値観があるんです。日本人が古くから持っている和の精神とか協調性はもっと世界に広めていきたいし、広めていくべきだと思っています。SDGsだってそう。日本人は古くから『足るを知る』とか『もったいないの精神』でやってきたはずなんです。戦争が終わって、日本は独立国だというけれど、実際は米軍基地の問題などが残っています。実は独立できていないという現状に国民に気づいてもらいたいんです。そのために一緒に勉強していきませんか?」
忙しそうに思える市議会議員の「仕事」だが、拘束時間は3ヶ月に一度、本会議や委員会に参加するのみと、実際はそこまで長くはない。ただ「すべきこと」は多い。税金が適切に使われているのかをチェックしたり、毎日のように届く住民からの質問やお願いに対応したりなど、より良い箕面市にするためにいつも奮闘している。
選挙時に掲げた公約は以下の通り。
一つひとつクリアし、市民の信頼を集めるその姿は同じ40代として誇らしい。

箕面市議会議員
木下伸雄
sanseito.kinoshita@gmail.com
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